SNSで他人に共感する世の中と言われていても、実際に共感もなにもないんだから仕方ないじゃないか、と思う時がある。
自分が歳をとったからというのもあるが、若い人が「◯◯が凄い」と感動しているモノの「原型」みたいなモノを自分はとっくの昔に体験してるので「ふーん」とも思わない場合がある。本人たちの「これは凄え!」がヒートアップすればするほど、「いや、それ昔からあるしなぁ……」としか思わない反比例のヒエヒエモードになってしまうのだ。我ながら、ヤな年寄りだとは思うけども。
とはいえ、歳を取ったからというだけで共感しにくいというものでもなく、実際のところはかなり昔から他人と感情の共有は難しい質(たち)だったように思う。
学校の友人たちがキャッキャウフフしてるモノは自分にはまったく興味のないものだったし、自分の好きなモノに学校の友人たちは全然乗ってこなかった。でも、当時はそれが当たり前だと思っていたから特になんとも思わなかった。
しかし、SNSを使っていると「もうちょい誰か判る人がおってもええやろうに」と思う時もある。なんと言ってもSNSで「繋がっている」人達は、学校という規模よりも、もっともっと多いんだし。
でも、個人的な経験で言えば、Xのポストのインプレッション数はフォロワーの大体一割かギリギリ二割以下ぐらいなので、案外「たくさんの人と繋がっている」訳ではないのだ。
そして、実際にポストを読んだ人のうち、次の行動(イイネするとかリンクをクリックするとか)をとる人は、平均的にはほぼ皆無に近い。
ちなみに、Xからこのブログへの流入数はフォロワー数の大体0.5 ~ 1%ぐらい。本当に知れた数なのだ。
似たような話で、若手のお笑い芸人たちから、自身のXのフォロワー数の割には、チケットが全然捌けないと嘆いているのを良く聞く。フォロワーの一割もチケットを購入してくれないのだとか。
「フォロワー = ファンじゃないんだから当たり前でしょうよ」と思う人もいるかと思うが、1000人以上フォロワーがいても10枚もチケットが売れなかったら、本人たちの心情的にはそう単純に割り切れるものではないだろう。
脱線ついでにXのフォロワー数の事を書くと、大多数の人が特に意味もなく1000人というのを大台認定していて、1000人を超える辺りから「つぶやき」から「語りかけ」みたいに、ポストの内容が変化するのが面白い。
ポストの内容に頻繁に「みなさん」が出てくると、「おっ、さてはこいつ1000人超えたな」と分かって、ちょっと笑ってしまう。
もっと脱線してXの事を書くと、その昔、XがまだTwitterだった頃、他人をフォローするのは今よりもっとテキトーな基準だった。たった一回のツイートが面白かったとか、それぐらいでフォローしていたし、公式RTが実装された時もリツイートするのはかなりテキトーなツイートが多かった。ネタであるとか、キレイな写真であるとかではなく、もっとしょーもないモノが大量にリツイートされていたように思う。
今はフォローもリポストもかなり慎重に行う雰囲気が漂っている。リポストする代わりにイイネだけして以後様子を伺う。こいつは大丈夫な奴か?みたいな感じで。
今はリポストもイイネも同じような機能になっているから、それはそれで良いんだけど、イイネするぐらいならリポストしてくれたら良いのにとは思う。
閑話休題。
つまりまあ、なにが言いたいのかと言うと、世の中の大多数の人といのは、実際のところ全然他人と共感なんかしていないし、するつもりもないのではないだろうか、とそう言いたいのだ。
「僕が他人に」とか「他人が僕に」ではなく、もっと言うと学校やSNSも関係なく、ごく少数のものすごく感じ入りやすい人たちが存在するだけで、世の中のほとんどの人は自分がフォローしている人や現実の友人に対しても、実はなんにも感じ入っていないのではないだろうかと、そう思うのだ。
無料でしかも指一本ワンタップするだけのイイネやリポストも、よっぽど特別な投稿内容でないとしないというのは、つまりそういう事だろうと。
でも、それで良いのだろうか?
有名人やタレントの「おはよー」級の無意味なポストに「共感」してイイネをつけるよりも、自分のフォロワーのどうでも良いようなポストに反応して、くだらないやりとりをする方がSNSの使い方としては、よっぽど理にかなっているのではないだろうか?それこそ「繋がってる」と感じるだろうし。
だから、みんなはこれからSNSの使い方を変えた方が良いと思います。
自分のタイムラインすらほとんど見ていない僕が言うことではないかも知れないけれども……。
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