2022年5月18日水曜日

答エヲ探シテ (「少女終末旅行」の最終話について)

「少女終末旅行」6巻(最終巻)表紙
画像はくらげバンチ公式のツイートから


この10年ぐらいの間に読んだ漫画のなかで、特に印象に残っている作品のひとつに「少女終末旅行」というものがある。
(※ これ以降は、最終話まで読み終わってる方のみご覧ください)

これから「少女終末旅行」を読もうと思う人向けの記事:
(「続きを読む」以降、およそ2,470文字)


わずか全6巻の短い話なのだが、最終話を含むラスト四話が特に良く、最終話の幕引き自体は個人的にはあまり好きなタイプではなかったのだけど、「でも、これはこれで全然アリやな~」と深く納得させられた。

なんと言っても、主人公二人にとっては最悪な結果となり、どう考えても死がじわじわと、しかし確実に迫りくる絶望的な状況でストーリーが閉じているのに、なぜかある種のほのぼのとした爽やかさまで感じさせる不思議な読後感が心地良い。

最後の最後まで「日常を生きる」というところに焦点が当たっているのが、あの不思議な読後感を生んでいるのだろうか?

とにかく、あの状況で思わぬ偶然から発見した最後の食料を二人で分け、いつもどおり睡眠をとるという、ある意味「究極の日常系」とも言えるラストの演出は、落語の「たちぎれ」で「番頭さんが若旦那を諌める前にキセルを一服喫(の)む」という演出を見た時ぐらい衝撃的だった。いや、まったく解りにくい例で申し訳ないけれども。

ちょっと脱線するけれども、この「絶望的なのに妙に爽やかなエンディング」というのは、なんとなくS.F映画の「サイレント・ランニング(ダグラス・トランブル監督/1972)」に似ている気がする。
「サイレント・ランニング」も、絶望的で憂鬱なストーリーなのに、最後の最後 土壇場のカットで未来に明るい希望が持てる、そんな雰囲気を残して終わる。
冷静に考えたら、そんな希望はおそらく存在しないと思えるのだけど、でもあの最後の1カットを見ると、あの状況が永遠に続きそうなそんな錯覚に陥るし、そこに至った悲劇性はすっかり忘れてしまう。

「少女終末旅行」も、もしエンディング以降があるとすれば、それはさらなる悲劇の始まりになるだろうと予想出来るが、物語は「悲劇の中のささやかな休息」で終わるため、それ以上の悲劇性をあまり感じさせない。

最上階に着いた二人が単純に助かったり、あるいは絶望して死ぬところを描いたりしたら、それはそれで薄っぺらい感じがするし、そういう意味でもなんというか見事な終わり方だったなと、そう思う。

ただ、この終わり方を見て納得出来なかった人も居たようだ。
曰く、これだと「救いがない」、「絶望的過ぎる」と。

で、そういった人達がWeb上でさかんに唱えているのが「二人はあの後助かって、月で無事に暮らしている」という謎のストーリー。

しかし、言うまでもなく、作品内にはあの二人の「その後」が判るような決定的な描写は一切ない。
つまり、あの後 二人がどうなったかは、「誰にも判らない」としか言えない。

なのでその「判らない」を補完する作業は、作者が正式に続編でも描かない限りは、すべて想像だったり、空想だったり、妄想でしかない訳で、正しい見解などと言うものにはなり得ない。

またそれとは別に、二人に対して「もし『その後』があるなら、幸せであって欲しいな」という「感想」を持つことは、別におかしな事ではない。

しかし、この自分の「感想」をゴールとし、考察や推察、伏線回収といったそれらしい言葉を用いて、自分の望む結末が「正解」のように主張するのは、正直かなり「無理がある」と思う。

ちなみに「二人は生き残って月に行った」と考える人の根拠を要約すると、
  • 二人が「びう(ビール)」を飲んで酔っ払った時に「月に行こう」と言っていた
  • 単行本6巻に、黒い石から月に向かった事を示唆するような描き下ろしの絵がある
  • 最後のページとあとがきの絵を透かして見ると、まるで黒い石がどこかへの入り口のように見え、二人が麦畑にワープしたように見える
  • アニメのエンディングで階段を降りる描写がある。二人は上に向かってるはずなので、階段を降りる事はありえない。階段を降りるのは「生きている」という意味だ
  • Webでの連載中は、最終回は第42話でこれは「しに(42)」だが、単行本化の際に第47話に話数が振り直された。これは「しな(47)ない」という意味だ
とまあ、始終こんな感じで、こういうのに対して「考察」や「伏線を回収」みたいな言葉を使われると、同じ作品を読んだ者としては、正直なんとも言えない気持ちになる。

一時期、中立的観点を記事作成の趣旨とするWikipediaにも、「二人はあの後も生きている」を示唆する編集がわざわざあったり(2020年7月15日 (水) 00:30版2020年11月17日 (火) 15:13版など)と、「二人は生きている(そして月に行った)」説は、着実にその勢力を拡大し、あたかもそれが読んだ人の共通認識かのような雰囲気さえ帯び始めている。

でも、それはさすがにちょっと違うんじゃないの、と思います。
自分が納得できない悲惨な結末を受け入れられないというのは、物語を読む上で相当幼いと思います。

何度も言うが、二人のその後は誰にも判らない。
そして、それ以上の答えはない。

「生き残って月に行った」よりも
  • 雪が積もるよな天候で、食料どころか水も得られない状況
  • 最後の食事の直前に、ワイヤやナイフ、爆薬と起爆など、自殺方法と思われる事に言及している
  • 「もう落ちてくるものもないか」とヘルメットを脱いだが、最後の黒い石のカットでは、表面の氷塊が二人の寝ている場所に大量に剥落しているような描写がある
といったところから「二人は死んだ」もしくは「近い将来に死ぬ」と考える方がよっぽど現実的だと思うが、それでも直接的な死の描写がないのだから「『その後』は判らない」とするのが筋だと思う。
実際、判らないんだし。

もちろん、個人の感想で「二人はあの後、月に行った」と思ったり、想像したりするのは全然自由です。
ただそれを「正しい結末」のように語られても、まるで賛同できない人も居る、という事なんです。

いつの日か作者が続編を描いた時、または、アニメ化されなかった残りの単行本2巻分が劇場版として公開された時に、二人のその後がどうなったかが判ったら良いですね。
「その後」の事は、それまで待ちたいと思います。



最後に、コロナ禍で見た夜の関空が、まさに「少女終末旅行」の世界だったので見てください。
正常に機能し続ける建物と機械。そして、そこに誰も居ない。
ちょっと不思議な光景でした。

コロナ禍の誰も居ない関西国際空港

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