なにか大阪弁(関西弁)の話題が X で頻繁に上がってくる。
例の「4820円」も面白かったが、個人的にはこれが一番好きです。
関西人はお嬢様の台詞を読む時も危ない
— 山田じぇみ子🧋 (@gemiko_voice) August 24, 2026
「忙しいですわ」とか「大変ですわ」とか、もうおっちゃん出てきますわ
違う違うお清楚なお嬢様ですわ〜って思ってもそれもおっちゃん出てくる
強い意志を持ってお嬢様を読むんですわ。
大阪弁話者の頭の中には、常に「大阪のおっさん」が住んでいて、「〜わ」で終わる文章を黙読していると、その発言主が上記のようなお嬢様であっても、容赦なく「大阪のおっさん」に侵食、上書きされていくという哀しい運命を背負っている。
大阪弁話者は、この「〜わ」という語尾がいわゆる女言葉のそれと同音異義となっているのを幼少期のかなり早くに気付き、文脈によってきちんと使い分けるぐらいの能力は備えている。
そのため漫画など視覚情報が多いコンテンツであればキチンと「〜わ」が女言葉となって脳内で再生されている。
ところが、これが活字だけとなると、とたんに「大阪のおっさん」に脳内侵入され、女言葉として文章を構成することが非常に難しくなってしまうのである。
そして、ワタクシもこの「〜わ」に似た現象で感動的な文章が大阪弁化してしまい、どうしてもそこで妙な「おかしみ」を感じてしまうという、哀しき大阪人の業を背負ってしまっているのです。
例を示しましょう。
かの名曲「山河」です。
作曲:堀内孝雄、作詞:小椋佳という日本のメロディメーカーの最上部に君臨する二人の鉄壁のタッグによって生まれた奇跡の楽曲です。日本語歌謡の究極の形のひとつ、といっても差し支えないでしょう。
僕はこの歌が大好きなのですが、どうしても2ヶ所ほど「大阪人の業」が発動してしまい、歌詞に「おかしみ」が発生してしまうのです。
それが以下の部分。(歌詞全文はこちら)
![]() |
| 「山河」歌詞(部分) 作詞:小椋佳 |
ここで言う「残したろうか」、「浮かべたろうか」は、自分の人生を振り返った時に過去形として「それが出来たのだろうか?」という問いかけである。「残せたのだろうか?」、「浮かべる事が出来たのだろうか?」というのが本意である。
ところが、この文を標準的大阪弁話者が読むと、「よっしゃ、ほな一丁、足跡残したろうやないか!」、「これ一発、川に浮かべたるか!」というような、腹巻をした調子乗りのおっさんが未来への展望を語るようにも読めてしまうのです。
自分の人生だけのみならず、人類の営みを山河の雄大さ悠久さに重ね合わせ、夢に向かって努力する事の素晴らしさ、それによって自分の愛する人に報いる事が出来るという普遍的な事実を、難しい言葉ではなく、それでいて平易過ぎない程度の比喩を用いて切々と歌い上げる途中に突如乱入してくる「大阪弁のおっさん」。
これはもう悲劇です。
悲劇なんです。


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