まずは7分程度のこの動画を観てやって下さい。
今回も後輩芸人の福人(ふくんちゅ)に「どうせ暇でしょ?」と言われて、彼の番組に出てしまいました。3回連続のゲストですね。
わし、よっぽど暇かえ!
で、今回のひと文字は「こ」、そしてそこから「怖い話」でした。
動画の中で僕が話している「オバケはあの世の芸人説」は、僕が20歳ぐらいの時に思いついたものです。
夜遅く、自転車で走っていると道路の傍らにデカイ慰霊碑があり、それを見た時に「これまでの歴史で人間が死んだ数と、幽霊として認識される数があまりにも剥離し過ぎている」という考えがふと頭によぎったのです。
そして、この「現在までの総死者数:幽霊として認識される数」の大きすぎるギャップを埋めるのに
・強い恨みを抱いている
・この世に未練がある
・死んだことに気がついていない
・複数の幽霊が合体して一体化している
等々の「幽霊化条件」では、なかなか合理的な説明は難しいように思えたわけです。
そこで思いついたのが、今までとは逆の発想。
よく「霊視」や「(幽霊が)見える人」という言い方をする。
あれは、こちら側の世界からすれば「特別な能力がある」という事になっているが、実は幽霊の方が「見られるための努力をしている」もしくは、見られるという意味において「超エリート」なのではないのかと?
それはつまりこうだ。
仮にもしあの世があるとすれば、そこは厳然たる「死」の世界。
「死」とは言うまでもなく「生」の反対。
「死」が当然であり、「生」とは価値観が反対の世界……。
もしかして、「死の世界」は感情表現の価値観も「ひっくり返った」世界なのではないだろうか?
つまり「生の世界」の「快」は、「死の世界」では「不快」な状況なのではないか?
と、ここまで考えて解った。
「生の世界」の「芸人」は、笑いや楽しい事など「快」を届ける。
「死の世界」の「芸人」は、悲しみや怒り、怨恨など「不快」を届ける。
そういう事なのだ!
これが「幽霊芸人説」が誕生した経緯です。
そして、「幽霊芸人説」が正しいとすると、幽霊として認知される数が極端に少ない理由も、その他の一見不可解にみえる現象も実に合理的に説明出来る。
まず「芸人」の世界は厳しい。
売れなければ顔も名前も知られない。
それは「死の世界」でも同じこと。
つまり「幽霊として認知される」というのは「超売れっ子芸人」と同じ意味なのだ。
だからこそ幽霊として認知される数は、総死者数に比べて極端に少ないのだ。
また、単に「幽霊」だけでなく、オバケ、妖怪、火の玉、心霊スポット、怪奇等々の種類分けがあるのは、お笑いに漫才、落語、ピン芸人、コント等といったジャンル分けがあるようなもので、そして、いわゆる「見える人」というのは、現世に置き換えてみれば「まだ売れていない芸人を見にわざわざ小劇場に足を運ぶ人」、つまりコアな演芸ファン、という事で説明が出来る。
さらに霊能者は芸人世界で言うところの作家やプロデューサーの立場であり、それ故に普通の人には見えないような「全然売れてない芸人(幽霊)」も見えるし、見たくなくても自然と見えてしまう。
そして、霊能者が行う「除霊」というのは、つまり「君、全然面白(怖)くないで?」、「この世界に合ってないから辞めた方がええよ?」というお経を使った引退勧告なのだと理解出来る。
どうだろうか?
「幽霊芸人説」、なかなか捨てたもんじゃない説ではないだろうか?
「幽霊芸人説」で考えると、幽霊たちの努力が垣間見えるようになる。
みんな売れるために自分らしい怖さを創作しようと必死なのだ、と。
ある者は、戦国時代の落ち武者になり。
ある者は、柳の下に白装束で現れ。
ある者は、皿の枚数を数えるという方法を編み出し。
ある者は、首なしのバイク乗りとして人車一体の新境地を切り開く。
「さすが、"血まみれ落ち武者"師匠!怖すぎます!」
「もう "うらめしや"師匠はさすがに古くない?」
「首なしでバイクって、道具に頼るな!邪道や!」
「"落ちちゃえば良かったのに" は子供やから通用しとるだけや」
「お前最近、B級ホラー映画からネタ パクってるらしいな?」
「旅館で夜 音立てるだけって、お前オイシいパターン見つけたなぁ」
なんとなく、そんな会話が聞こえてきそうです。
個人的にはあの世というものは存在しないと思ってますが、それと同時に「あっても良いのにな」とも思っています。
亡くなった人達にもまた会ってみたいですしね。
ま、そんなところで、もし、次回の出演があれば、またYouTubeでお会いしましょう!
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