鷲の巣展望台から、諸々の事象を経て宿に着いたのは現地時間の夜10時頃であった。
まだ晩御飯を食べていなかった我々は、とりあえずホテルに重量物を置いて、なにかを食べに素早く再度外出する予定であったが、全く予想もしていなかった訪問者がいたために、一旦この計画は棚上げされた。
我々を待ち受けていたのは、ロシアへと向かうフェリーの中で出会ったある青年であった。
彼は、超でっかい、そして超まんまるなお団子ヘアーをその後頭部に有し、顔面の柔和なアルカイックスマイルと相まって、フェリーの乗客に対して「もしかしてブッダ(手塚治虫版)なのでは?」という幻想を抱かせていた、そんな青年である。
そして、その彼は彼で僕の四段8層つづら折りのポニーテールが気になっていて、思わず「それどうやって結んでるんですか?」と乗船中に訊いてきたという、「男のおもしろヘアースタイル同盟」の絆を感じさせる、そんな男なのである。
また、一人でフェリーに乗っていた彼は暇だったためか、僕の「洋上朝日撮影大会」にもしばらく付き合ってくれたし、デッキで出会うと数学者や物理学者の面白エピソードを語り合ったりもしてくれた。船上で僕と一番長く話をしたのはおそらく彼なのである。
そんな彼がウラジオストクにやって来た目的は、なんと日本の軽自動車でこれから厳冬期を迎えるシベリアを通り抜け、モスクワから東欧を経てパリまで、なんなら英仏海峡トンネルをも走破しロンドンまで駆け抜けようという壮大な計画を実行に移すためなのである。
こういった、若者の各国放浪あばれ旅が大好きな僕と井上くんは、フェリーを降りる際に「頑張れよー!」、「本出す時は俺らの事も書いてくれよなー!」などと身勝手かつ盛大な応援をして送り出したのである。ほんの10時間前に。
その彼が、ほんの10時間前に笑顔で送り出した彼が、アルカイック苦笑いを浮かべながら「ちょっと困った事が起こってしまって……」と、申し訳無さそうにホテルの小さなロビーに佇んでいた。聞けば、我々の帰りを待って、3時間も4時間もそうやって佇んでいたのだそうだ。
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我々を待ってた彼 困った顔をして「助けてもらえませんか」と遠慮がちに言った。 (可哀想なので目ぐらいは隠してあげよう 笑) |
我々は、荷物を置くのもそこそこに、「おっ、どないしたんや!(笑)」などと、彼とは対象的な「旅先で楽しいことがたくさん起こってます」的な破顔の笑顔で彼の「困った事」を迎撃しようと、ロビーの椅子に腰掛けた。
「ちょっとなんでかは解らないんですけど……」と口を開いた彼の「困り事」を要約すると、今回の壮大な計画のために彼は二種類のクレジットカードを持ってきていたのだが、その二枚ともがこの極東ロシアの地では使えず、支払いどころか現金も引き出せないという、素寒貧の一文無し男 in ウラジオストクになってしまったのですトホホ、という事であった。
「これがカードなんですけど……」
と彼は二枚のカードをずずずいと我々の方へ押し出した。
一枚は銀行系のカードで、もう一枚はクレジットカードだった。
現金主義者で、銀行間の提携やクレジットカードについてはなにも知らない僕であるが、彼が示した二枚のうち一枚目のカードを見た瞬間、「このカードは少なくともロシア国内では1ミリ秒も活躍する場面がないんじゃないのかな?」と確信にも近い野生の勘が脳内を駆け巡った。
そのカードには「IYOCA JCB」という文字が踊っていた。
「いよか?」
「伊予銀行の、銀行カードです」
「い、伊予銀行はロシアのどっか銀行と提携してんの、か、な?」
こちらも銀行間のやり取りなどはあまり知らないので歯切れの悪い質問しか出来ないが、この質問に対する回答は
「いや、あの、うーん……」
というさらに歯切れの悪いものであった。
重苦しい沈黙が訪れ、僕は井上くんを見た。彼の眼は「伊予銀行でJCBなら、もうこのカードの事は忘れた方が良いでしょう」と語ってるようだった。
もう一枚のクレジットカードに目を移せば、それはVISAであった。
「こっちはVISAやん。とりあえず、これでええやん」
「いや実は……」
彼が説明をする。これこそが「なぜか解らない」の本命だと。
彼は旅行直前に周りからの「絶対にVISAかMasterCardを持っていくべきだ!」という脅迫にも似た強いアドバイスを受けてこのカードを作ったのだが、あまりにも出発直前に作ったからなのか、このカードは未だに「使用開始出来ない」ことになっていて、弾き返されるのだそうだ。
普通、クレジットカードはカードが発行された時点で信用調査は終わっているので、手元にカードがあるという事はそれすなわち「このカードは使用可能」となるはずであるが、なにかの手続き的な間違いが起こっているようだった。それもよりによってロシアの地で。
うーん、そうかと、またもや重い沈黙が訪れた。
そして思い出した。
我々はお昼からなにも食べてなかったのだと。
なので
「腹が減って、(いい方法が)なにも思いつかん」
というなんのヒネリもない理由を言い、1時間の中座時間をもらった。
「一緒になんか食べに行くか?」と彼を誘ってみたが、彼は「いえ、僕は良いです。どうぞ行ってきてください」と遠慮がちに言い、ここでまたもう一時間我々の帰りを待つつもりのようであった。
こうして彼のウラジオストクでの「待ち時間」はさらに1時間加算され、おじさん二人は空腹を満たすために夜の街へと解き放たれたのだった。
それにしても、彼の当初の計画では「伊予銀行のJCB」カード一枚でこのロシア+ヨーロッパ横断旅行を乗り切りつもりだったのである。これはなかなか凄まじい。
もしかしたら彼はとてつもない「剛の者」なのかも知れないなと、僕はその時密かに思った。
そして彼の「剛の者」ぶりは、後々さらにパワーアップした形で我々の眼前に晒されるのであった。
※ 2021年現在、JCBカードはロシア国内では郵便局を中心に幅広く使用することが出来るようです。参考リンク → JCB、ロシアのPost Bankと提携し、同国内でカード加盟店・ATMを拡大
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